門司氏のルーツ
戦前、戦中、そして戦後すぐ、私の父、門司正三の研究が、困難な環境下で滞りなく行われた背景には、北九州の本家の支援がありました。父の研究の発想の源にも、北九州という生地が影響を与えていたと思います。影響といっても、具体的なはっきりしたものではなく、漠然としたものでしょう。しかし、直接的ではなくても、風土つまり歴史を持った文化も含む環境は、思考に影響を与えたと思われます。
北九州はアジア大陸に近く、日本で最初に稲作が行われた場所の有力候補とされています。さらに、日本の歴史を通して、現代に至るまで大陸との接点でした。これからも中国を筆頭とするアジア経済圏の発展と共に、アジアとの交流拠点となり栄えていくと思われます。父が生まれた家は、もう残っていませんが、北九州市八幡区にありました。八幡製鉄所は、戦前は日本の製鉄の中心として、国力の源でもありました。
父の父、門司廣吉(ひろきち)は、門司家を再興し、八幡市の市会議員を務め、当地の学校の設立等にも貢献しました。長男の門司英俊の計らいで次男の父、正三にも家督が相続されたことも、若い時の父の研究の大きな支えでした。
門司家の先祖を遡ると、平安末期-鎌倉時代にそのルーツがあります。藤原(中原)親能(ちかよし)(1143‐1209)は、源頼朝に仕えて鎌倉幕府の創設に参与、公事奉行・京都守護などを歴任しました。鎌倉幕府は、関東の有力な武士を「下り衆」として平家の勢力が強かった九州に送り込みました。藤原親能の孫の藤原親房も、鎌倉幕府の命により、下総の国(現在の千葉とされる)から水軍で九州の門司に下向しました。下総前司藤原親房は豊前国の代官職に就き、地名の門司氏を名乗りました。関門海峡を見下ろす古城山山頂の関山城(門司城、亀城)を本城とし、他に三角城・金山城・寒竹城・足立城・若王子城の五城を配して、門司六郷の地頭となりました。現在、古城山山頂からは関門海峡を眼下に見下ろせます。対岸に見える山口県下関市の赤間神社には、壇ノ浦の戦で平家一門と共に没した安徳天皇が祭られ、平家一門の墓もあります。
門司氏は、以後350年に渡りこの地に続きました。関門海峡の治安維持と通行税の取立て、密貿易の取締まりなども行いました。蒙古軍来襲(元寇)の戦闘に参加し、戦功により幕府より陸奥国会津上荒田村を給付されています。しかし、交通の要地であり、周囲の有力諸侯の争奪の場となり、戦闘も絶えなかったために疲弊して行き、やがて大内氏、ついで毛利氏の支配下に置かれるようになり、北九州での地位を失っていきました。
門司廣吉は、門司家の再興とともに、明治・大正・昭和初期という時代に於いて、北九州の地の発展、ひいては国の発展を考えていたと思われます。父が基礎研究の困難な戦争の時代にあっても植物学に没頭できた背景には、家の存在は大きかったと思います。
2009年11月22日 門司 邦雄
主要参考文献 :
『中世北九州落日の譜 -門司氏史話-』門司宣里著 1975年
北九州市在住の門司本家の親族により書かれた本です。
『北・九州 -縄文より明治維新まで-』箭内健次著 吉川弘文館 1968年 |