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門司研究室とその軌跡

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寄稿集

麦の穂に刺され

 19世紀フランスの詩人、アルチュール・ランボーの現存する最初のフランス語詩は、この「体感」です。邦訳では、永井荷風の「そぞろあるき」が有名です。DNA二重螺旋の発見者、ジェームス・ワトソンの本の中にこの詩の新しい解を見つけ、本当に久し振りに訳しなおしました。

体感(サンサシオン)

    夏の青い夕べには、ぼくは小道を歩くんだ、
麦の穂に刺され、雑草を踏む足元は涼しく、
帽子も被らず、夢見心地で、
額は風に吹かれるにまかせ。

    ぼくは何も語らない、何も考えない、
でも、ぼくの心には限りない愛がこみ上げ、
遠くに行こう、はるか遠くまで、ボヘミアンのように、
「自然」の中を、― 女と一緒のように、幸福に。

                          1870年3月

 「体感」と訳したフランス語「サンサシオン sensation 」は、いわゆる感覚ではなく、「感覚器が刺激を受けて直接引き起こされる意識内容(ロワヤル仏和)」です。堀口大學は、かってこの言葉を「感触」と訳しました。英語読みでは、センセーションとなります。わくわくする体感を表す言葉として、今のフランスではスカイダイビング、パラグライダー、サイクリング、カヌーなどのスポーツ・イベントのキャッチコピーとしてよく使われています。まだ15歳だったチビのランボーは、夢想に生々しい「感触」を与えるために、「体感 Sensation 」というタイトルを使用したのです。

 心は背伸びをした、体格はまだ背伸び前のランボーの気持ちを考えながら、もう一度、この詩を訳し直しました。この詩は1870年3月に書かれています。まさに、東風(こち)吹かば、ですね。地球温暖化以前の今よりさらに寒さの厳しいフランス北東部の少年にとって、高緯度地方の夏の長い青い夕暮の時は、さぞや夢想を誘うものだったことでしょう。そして、一面の麦畑、これもやはり夢想の広がりだったと思います。「デンプンと泥を食らって、地酒に地ビールを飲んでる田舎、ぼくには懐かしくないね。」と、やがてパリに出たランボーは友人ドラエーへの手紙で北フランスの故郷、アルデンヌをこう書いています。オランダ生まれのゴッホの南仏プロヴァンスの絵で見るように、小麦は太陽の恵みの豊かさの象徴でもあったと思います。

 「麦の穂に刺されて Picote par les bles 」(アクサン省略)という言葉は、私には長いこと不思議なままになっていました。この詩を読む限り、夏(初夏)ですから麦は刈り取り前で背が高いはずですが、いったいどの位置なのだろうかと。私は、なんとなく、顔や胸に近いイメージを持っていました。それが、第2節の、最終的には女性への夢想にまで繋がっているはずです。つまりガールフレンドの髪の毛、時には眉毛が触る高さなのではないかと。しかし、いくらランボーがまだチビだって、そんなはずはない。小麦の背丈が、そんなに高いはずはないから、これはレトリックなのだと思っていました。

 その第1の回答は、DNA二重螺旋の発見者であるジェームス・ワトソンとアンドリュー・ベリーの共著である『DNA』(青木薫訳、2003年12月、講談社発行)にありました。ここでは、北欧の画家ブリューゲルの作品「穀物の収穫」を例に出し、「16世紀当時の小麦は1.5メートルほどの高さがあった。それ以降、人為選択によって丈は半分になり、収穫が容易になった。」という説明がありました。
19世紀のフランスのアルデンヌではどうだったのだろうか。インターネットで調べてみましたが、私の検索方法が悪いのか、草丈の数値データは得られませんでした。今では世界的なネット版百科全書となった Wikipedia には、奈良・平安時代には麦は馬の資料としても使われ、稲や栗ほど食用作物としての認識が広まっていなかったという、興味ある記事も見つけました。

 Wikipedia の「小麦農林10号」、「緑の革命」の項目に、(間接的かも知れませんが)おそらく第2の答を見つけました。
日本の岩手県で背の低くなる半矮性遺伝子を持つ品種の交配が行なわれ(1925)、農林10号として登録されました(1935)。これを太平洋戦争後、占領軍(GHQ)がアメリカに持ち帰り、「1961年には、小麦農林10号を親としたコムギ短稈多収品種ゲインズが育成された。」と書かれています。さらにこの小麦はボーローグによりメキシコ品種と交配され、草丈90~120cmの短稈多収品種が生まれ、後に「緑の革命」を引き起こし、その功績によりボーローグらは1970年にノーベル平和賞を受賞したと書かれています。
おそらく、19世紀当時の北東フランス、アルデンヌ地方の小麦の穂先の高さは、背伸びが始まったばかりのランボーの胸から顔の下に届く位だったと思われます。

 さて、この『DNA』には、もうひとつ興味をさそう記事がありました。ソ連にルイセンコという遺伝学者がいて、その学者の「ミチューリン農法」に指導された新しい集団農業形態があることを、小学生当時の我が家に下宿していた早稲田大学理工学部の学生から聞いていました。当時、日本でも一部で流行ったというこの農法と遺伝学者ルイセンコについては、最近は全く話題になりませんので、すっかり忘れていました。ところが、『DNA』によりますと、ルイセンコは「枝分かれする小麦」を開発し、スターリンに捧げたそうです。「その小麦は、1株からの収量は多いものの、まばらに植えつける必用があるため面積辺りの収穫量は減るのだった。」と、この本には括弧で括られた注釈がついています。さらに、「彼こそは、当時のソ連で何百万人もの人たちを飢餓に陥らせた張本人なのだ。」とも。政治の問題かも知れませんが、なぜ、単位面積あたりの収量が予め予測されなかったのでしょうか。

 麦はイネ科です。もはや、いつだったのかは思い出せませんが、東大の植物学教室の隅の実験棟で、四角柱のガラス筒を黒い紙で覆い、上に蛍光灯の照明を付けた装置何本かで、稲の実験をしていたことを記憶しています。その装置が印象的だったので覚えているのでしょう。何の実験かと父に聞いたところ、父は、稲の生産性が高いことを実験していると教えてくれました。どうして生産性が高いかは、全く語りませんでした。父は私に、ほんとうにたまに、ポツンと点だけ教えてくれました。半世紀経って、「枝分かれする小麦」の話から、直立した葉の効率を推測できるようになりました。

2009年12月 門司 邦雄

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