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門司研究室とその軌跡

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寄稿集

父と大東亜戦争(生誕100周年にちなみ)

 ビッグコミックオリジナルに村上もとかの『フイチン再見』が連載されて10か月たった。主人公の女流漫画家、上田としこ(トシコ)は実在の人物である。あの独特な絵を覚えてはいるが、どんな漫画だったかは覚えていない。漫画はハルビン(哈爾浜、漫画ではハルピン)の日本人の裕福な家庭に育った天真爛漫なお嬢さんが漫画家になる人生を描いている。現在は、としこが戦時下の東京から満州国ハルビンに戻ったところである。としこが東京で絵の勉強をしている間に大東亜戦争(太平洋戦争はアメリカが付けた名称)が勃発する。当時の東京の様子も少しだけだが描かれていた。としこの絵画教室の男性の仲間たちは、御国の為に戦争に行くまでは、出来るだけ絵を描いていたい・・・  漫画は漫画だから、当時の日本の喧噪はさほどは描かれてはいないように見える。
興味を持って、上田としこの父、上田熊生をネットで検索してみたが、詳しい記事は見つからなかった。敗戦後、日本に戻る時に捕まり、処刑された人物だから無いのだろうか。

Picture of Graph by Dr. Masami Monsi

図版(画像クリックで拡大します)

 上のA4版の図は、今年生誕100年を迎える植物生態学者の亡父が1941年5月に作成した。この年の12月には大東亜戦争が勃発した。当時東京帝国大学副手であった26歳の父が植物群落を調査した図であるが、場所はおそらく、荒川土手の実験地と思われる。この研究は、おそらく、しばらくの間続けられ、戦火が激しくなって中断する。1943年に「豆莢の捩じれ(スリングショット運動)に就いて」というドイツ語の論文が提出されている。これは、父が助教授になる時の論文だと思われる。開戦によりフィールドワークが出来なくなったのではと思う。そして、敗戦後に、植物群落の物質生産の研究は再検討されて復活し、1953年に佐伯先生との共同研究としてまとめられ、発表されたと思う。(その論文PDFはこちら論文PDFリストはこちらをご覧ください。) 佐伯先生の亡父への弔辞では「荒れ果てた戦後の東大の研究室には先輩たちが残していった、輸入実験器具があり、その中に我々にはなつかしい Ederhecht の照度計が4つありました。これを元手にして先生は群落の深さ方向の光の強さの減衰を測定しようとされました。」と語られるが、父がどのような経過で立体的測定方法を開発していったのかは、ぼくには分からない。当時の飯田橋(千代田区富士見町)の家には、ヤツデの木があり、その葉をパンチで採集して測定・研究したという話を覚えている。フィールドワークが困難だった戦中のことだったのかもしれない。
武蔵小金井に引っ越した後だが、父が得意そうに小冊子に載せたエッセイを見せてくれた。たぶん、戦時下、あるいは、開戦前のフィールドワーク中のことだろう、調査実験中にひとりの坊主が通りかかり「この国家の非常時にいい若者が何をしている」と喝を入れられたそうである。「非常時だからこそやっているのだ」と思ったそうだが、実際の経過は聞いていない。余程ムカついたらしく、30年以上もはっきり覚えていた。父は昭和18年(1943年)8月に本家の兄宛に遺言状を書いている。近眼のため、丙種合格で徴兵されずに戦後を迎えた父だか、この頃、兵隊に取られる覚悟をしたと思われる。その締めくくりの言葉は、「終リニ日本国ノ隆昌ヲ祈リ 又 皆様方ノ御繁栄ヲ御祈リ致シマス」となっている。ぼくの覚えている限り、父は浅草浅草寺以外の神社仏閣に詣でたことは無い。初詣もしないし、国旗を飾ることも無かった。姉が強引に東京に建てた父の墓前に先生方が集まり、世俗的な坊主の胡散臭い説教を長々と聞かされているのを、既に存在しない父はどう思ったことだろう。

 父の没後、小金井の実家に蔵書の整理を手伝いに行った。市子は父が葉書に描いた絵を集めて姉に渡したが、どこかにしまい込まれた。神田文房堂の黄色い表紙の画帳に書かれた、戦中・戦後の父の覚書ノートはどこかに無くなっていた。そして、母が死ぬまではと思って実家に残しておいた父が撮影した、幼稚園に上がる前までのぼくの写真アルバム2冊も、母の没後、無くなってしまった。蔵書で貴重な物は、既に大学に寄贈してある。庭の片隅のスチール物置の隅に置いてあった黄ばんだ巻紙の束は、調べてみて父のグラフ類だと分かったので、処分されないように保管した後、書庫にあった手書き原稿の一部とともに正式に相続した。グラフ類は劣化していて、サイズも大きい物が多く、破けやすいので、いつかまとめて複写する予定である。ぼくの後に受け継ぎたい人はいないので、蔵書を寄贈した大学に寄贈したい。

 昭和10年代を、日本が最も豊かだった時代という人もいる。確かに、村上もとかの『フイチン再見』を見ていると、そういう雰囲気もある。それは限られた恵まれた人だけだったかもしれないが。アメリカが命名した太平洋戦争、開戦当時は帝国海軍(連合艦隊)の軍備はアメリカ海軍を遥かに凌ぐ軍備だったことからも、当時の新興大日本帝国の相対的豊かさを理解することは可能だろう。父も裕福な家に生まれ、本家の援助の下、戦争にも行かずに研究を続けることができた。しかし、それはそれで、彼の心の重荷になり続けていたように思う。
ぼくが小学校に入学した時、父の職業は「東京大学の小遣いさん」だった。本人に聞いたらそういう答えだった。ぼくは小遣いさんとは、細々したことをすべてやる人のことだと思って、朝早くから夜遅くまで研究室にいる父を、小遣いさんですと担任の先生に答えた笑い話がある。小学校に入学してすぐに、父と母は研究のためにパキスタンに出張した。小学校2年の後半に戻ってきたのだが、前後は慌ただしかったので、もっと長い間不在だったような記憶がある。小学校3年の時だろうか、学校で尊敬する人という問題?があり、父に聞いてみたら「牧野富太郎」だった。続いて聞いた言葉は「草を褥に、木の根を枕に花に恋して90年」(牧野富太郎の言葉)。ぼくは勝手に裸の大将・山下清の学者版を思い描いてしまい、当時は Wikipedia なんて無かったから、目指すべきは恵まれない市井の研究者という奇妙な固定観念となってぼくの中に染み付いてしまった。とは言え、小学生のぼくが草花の名前を聞くと、「私は分類学者ではないから、そういうことには答えない」と教えなかった父。自分で調べなさい、しかし、名前を知れば(皮相な知識があれば)良いということではない、という意味だったのだろう。小学生だったぼくに、パキスタン帰りの父は「君は Mental Curiosity が足りない」とよく言っていた。ぼくが見えたい物を見つけたのは、ずっと後のことだ。
フクシマ以来、日本は大きく変わったと思う。フクシマも、流れの中に存在している事象でもあるけれど。様々な報道を見て思うのは、PCの普及で遥かに容易になった定量的分析方法が軽んじられている。・・・損得・善悪を超えて、個別ではなく集合的に事象を把握すべき機関・人々が本来の仕事をしていないのでは。

Picture of Dr. Masami Monsi

父の手紙類の箱に入っていた若き日の父の写真(画像クリックで拡大します)

Picture of Kunio with Cats

2、3歳の頃と思われる父の撮影したぼくの写真、
ネガは書庫の床に落ちていたので痛んでいる。
(画像クリックで拡大します)

2014年1月25日 門司 邦雄

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