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門司研究室とその軌跡

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寄稿集

門司正三先生の死去を悼む

 再びお元気な姿に戻られることなく、門司先生は昨年(1997)12月21日突然のように亡くなられました。83才のご高齢とはいえ、まだまだご活躍いただきたいところでした。
先生が中野治房先生に師事されて研究の道へはいられてからは、ダイズの莢の開裂機構解明のため物理学教室でエックス線写真をとらせてもらうなど、積極的に他教室に乗り込んでおられたと聞きます。著者が生態学研究室に入ったのは終戦後間もない1948年、先生が新進の助教授として、それまでの生理学均な研究から、生態学のあるペき姿を求めて新しい一歩を踏み出そうとされている時でした。その頃の生態学研究室には学生は殆どいませんでしたが、宝月先生、田崎先生という門司先生と同年代の生態学者と共に、植物生理学研究室の森健志先生が、大部屋を生態研と共同で使って居られました。夕方になるとその森先生が精製して飲める程度にした石油変性のアルコールを傾けながら学問の議論がはじまります。学問を創ろうという、この30代半ばの研究者たちの論議はたいへん高度なものであったと思いますが、幼稚な私には十分理解できたとは思えません。ただ他の優れた研究室や外国の例を見ても、常時こうした異質の経歴の議論仲間がいたということはすばらしく、研究室のあり方として示唆に富むものと思われます.
学問の世界では必ずしもなめらかに進歩してゆくものではありません。思いがけない学問の芽が生まれ、急発展をとげるということが時々起ります。門司先生を頂点とした研究グループはそうした急激な発展の時に、参加できたと思います。デンマークの植物生理学者Boysen Jensenが物質生産を基礎とする解析の有用性を林学の問題に適用してみせましたが、その重要性を理解した門司先生は生態学的現象の解析にこれを適用しようとされました。まだお若かった頃の先生がそこで手がけられたのは、植物群落の深さ方向への挑戦でありました。荒れ果てた戦後の東大の研究室には先輩たちが残していった輸入実験器具があり、その中に我々には懐かしいEderhechtの照度計が4つありました。これを元手にして先生は群落の深さ方向の光の強さの減衰を測定しようとされました。それは止むに止まれぬ必要を感じてのフィールド調査でしたから、何らかの既成の方法にのっとってやるというのとは大違いです。荒川河川敷での調査も曜日とは全く無関係に、雨の日と晴れ過ぎの日だけが中止でした。その研究は道具も含めた工夫の集積であり、測定結果の表現にも先生はエ来を重ねておられました。この手法はよく知られた層別刈り取り法として完成しました。私自身は腰巾着と綽名されながら全く労力のみの手助けに終始しました。こうしたデータの集積の結果として、植物群落内の探さ方向への光減衰と、減衰途中の葉量とが関係づけられ、両者の定量的対応関係が明らかになってきたのです。
こうした研究はイネの姿勢を収量との関係で論ずるような日本的な応用分野の展開にもつながり、また、光以外にも、CO2や水蒸気、あるいは温湿度のプロフィール解析を大いに刺激することになりました。また、水界の生態学への展開にも目覚しいものがあったことは忘れられません。物質生産が生態学的な現象の重要な解析手段であることは、門弟達の研究によってもはっきりしてまいりました。すなわち、競争や密度、遷移や分析の問題などに適用しては成功していきました。こうして今では生態学的研究の手段として物質生産を研究することはすっかり世界的に定着してしまった感があります。しかし始めのうちは、生態学らしくない生理主義的研究との非難をあぴていて、後々先生が述懐されておられたように、東大という背景がなかったら恐らくつぷされていたであろうという状況の中にありました。
更に、先生が特に興味をもたれた独自の方向に、モデリング・シュミレーションの先駆的手法の展開、物質再生産の研究があります。コンピュータ時代以前であったため、シュミレーションは専ら手計算でやっでおられましたが、その経過を学生への講義の時に披露されるため、我々は開いたノートのどこから書き始めたら、全部が収まりきるか分らず弱った思い出があります。物質再生産の研究は講義や研究室セミナーでは何の前ぷれも無く、突然論文として我々の眼前に現れてぴっくりさせられたものでした。
門司先生の後半生では,我が国のIBP研究の発足と実施ために、幹事長的、実質は中心的役割を果たされたのが大きな業績でした。それは昭和40年代なかばから重大な社会問題となってきた環境問題への対処にもつながる研究者の学際的組織化のはしりでもありました。この未経験の組織化に際して故田宮博先生に委員長になっていただいたことが組織化の成功につながったと、先生は強調しておられました。生態学を目指す人々が何はともあれIBPの趣旨をうけてじっくり実力を貯えたことは、その後の日本の生態学の発展にも寄与したと私は考えます。
先生はよく創造性の大切なことを我々に説かれました。我々はなるほどとは思いつつも、どうしたらその創造性がえられるのかについては、依然としてはっきりとは分らないのが残念な所です。それにしても、私たち弟子どもは、物質生産を基礎とする生態学の展開のさ中に、先生の御指導を受けつつ研究できた幸わせを感じないわけにはいきません。

1998年 佐伯 敏郎

注)
戸塚績が提出したこの文章は、佐伯敏郎の門司正三への弔辞(「門司正三博士を偲ぶ」に掲載)と同じ部分がかなりありますが、当時の研究室の姿勢を書いた貴重な資料として掲載いたします。なお、出典は不明です。

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